時々、めがねとコンタクトレンズがなかったら・・・と考えて、この文明の利器を生み出してくれた人たちに感謝をする。
私の近眼は隔世遺伝らしい。
ひいおばあちゃんにあたる方がビール瓶の底のようなめがねをかけていたよ、ときいたことがある。
昔のレンズはガラスで重たかっただろうし、不便だったろうなあ。
矯正の具合も今よりは甘くて、めがねをかけてもぼんやりしていたんじゃないかな。
私は5歳のころは2.0みえていたのだけど、10歳くらいからはめがね生活。
成長とともにどんどん視力が落ちていった。
数ヶ月で新しいレンズにしなくちゃいけない時期もあった。
お金がかかって仕方がないので、申し訳なかったけど、(今みたいにお安いものがないのだもの)頭痛がひどくなるから、仕方がなかった。
新しく矯正されたレンズから見える世界は、それはそれは美しくきらきらしていて、つい数時間前までかけていためがねには後戻りできませんという感じだった。
日頃はあまり過剰なアクションをしない私が「わーーー!夜景がきれいーー!」と喜ぶので、母が「それだけ喜んでくれたら安いもんやなあ。」と笑っていた。
毎日、使い捨てコンタクトをつけるたびに、そして外して捨てるたびに、すごくぜいたくしている気分になって、罪悪感のフィルターで世界を包んでしまう。
だけど、「わー!!!!今日もバラがきれいやー、月がきれいやーー!」と言えることに感謝して、「こんなにすてきな世界をみられるんやから安いもんやなあ。」と思うことにしている。